誰かのために頑張ること

誰かのために頑張るには私が私を大切にしなきゃいけないことに気がつきました。仕事人間だったので家庭での記憶が所々抜けています。もう忘れないように日々を記録します。

損か得かを考えたら、得なほうがイイに決まってる。
結局自分に返ってくるなら、誰かのために頑張ろうかな…と、自己中に尽くす主婦のブログ。

私、興味ないので(大門未知子インスパイア)


「この世に人間として生まれてきているのは喜怒哀楽全ての感情を経験をするためなんだってよ」と妹が言った。

「『今度はこの感情を学びたい』と選んで生まれてくる。不平不満を言ってる人がいるけど自分で選んだんだからね、自分で選んだという記憶は消されて生まれてくるんだけど」と。

妹はスピリチュアルカウンセラーの勉強をしているらしい、いや既にカウンセラーなのかな?


父が亡くなったあと私の夢に父が出てきて父を感じた、という話しを先日書いた。

これは私と父との関係性の上での私の夢なので、その時ホントに「じいさん来た!」と思った。

2回目の夢でも「無事に行った」と思った。


なのに「感情を勉強するために生まれた」と言われても、私が感じたわけではないからか心にスーッと入ってこないw

自分の体験じゃないからかなぁ。

「なるほどねー」とは思ったけど入ってこない。


妹からこの話しを聞いてから、毎日起きる不幸なニュースを見聞きするたびに「この人も自分でこの人生を選んで生まれてきたのかなぁ」と思うようになった。

悲しくなるからそんなこと思いたくないけど、ずっと頭に残っているからずっと毎日思っている。


いつもお世話になっている整体師さんもスピリチュアルの勉強をしている。

話しを聞いていると、私が以前勉強していた仏教と根本は一緒なのではないかと思うところが多い。

私が教えを始めたきっかけは病み闇ブログのほうに書いたが、やめたきっかけは簡単に言うと失望したから。

教えに失望したわけではなく信頼していた人に失望した。

その人が悪いのではない、私が勝手に思って勝手に失望したのだと思う。

いつかそのことに気持ちが透明になってきたらブログに書きたいと思っている、今は曇ってるから無理。

そんなことがあったから妹と整体師さんの話しが素直に入ってこないのかもしれない。

うーん………「かもしれない」

自分のことだけどわからない。


教えもスピも、たくさん救われている人がいるから素晴らしいものなんだと思う。

私は教えを勉強して失望してやめた経験をしたからこそ、今の自分に合う思考を生み出せたんだと思う。

私の心にスピが入っていかないように、姫思考は他人の心には入っていかない「かもしれない」

その思考は私のモノだから私の人生が明るくなりさえすればいいだけだ。

ただ、全否定ではせっかくの何かのヒントが掴めない「かもしれない」から気の向くままに行動してみようとも思う。

その時の気持ちがどうなってるかなんて、その時にならないとわからない。

ましてや他人のことなんか。


「あの人」口を開けば他人の話。

悪口を聞かされてるわけではないが「他人から聞かされる他人の話」は私にとっては恐怖でしかない。

ただただ私を巻き込まないでほしい。

そんな話しに乗らない私を嫌って無視してほしい。



のあさん

私のダイエットスリッパを自分のベッドに運んで、自分も入って座っているところ。


私がスリッパを脱いだらベッドから出てスリッパを運び始めた


このスリッパもベッドまで運ぶのかな?


いや、置いたwww


そしてベッドにあったダイエットスリッパを持ってきた


それをどうするの?


また置いた


ただそれだけ!www