終戦の日を前に
昨年98歳で亡くなった義祖母(ダンナの父方のおばあちゃん)の納骨式を行なったことと、普段は避けている戦争モノの映画を観たことで、数年前お義父さんにもらった書類のことを思い出した。
それは、お義父さんの父親つまり昨年亡くなった義祖母の旦那様に関する書類のコピーだった。
お義父さんが私たちにこの書類のコピーをくれた時は「へぇーこんな手紙が残ってたんですか!」と驚きはしたが、内容をじっくりと読むことはしなかった。
先日、もらってからそのまま保管していたことを思い出し、ファイルから出して熟読した。
書類の日付けから数えると、
義祖父 享年29歳
義祖母 当時24歳
義父 当時2歳
今、放送中のNHK連続テレビ小説「なつぞら」の主人公はお義父さんの五つ歳上ということになる。
書類のコピーは全部で3枚。
1枚目は死亡告知書
2枚目は同職のかたから妻である義祖母宛に届いた手紙
3枚目は簡単な現地の地図
その手紙の、旧字旧仮名遣いを新字現代仮名遣いに直してみたのでここに記録しておく。
(「*」は読めなかった文字)
冠省 御主人 【義祖父の名前】 軍医少尉殿は、猛第六〇〇九部隊乃*第九十兵站病院附として御出征。
東部「ニューギニア」「ウエワク」に上陸以来、良く困苦欠乏に堪え、元気で活躍せられましたが、昭和十九年十二月十日「マリン」に於て「マラリア」と脚気の為、乏しい中のあらゆる療法にも関わらず、残念にも戦病死されました。
常に黙々として真面目に勤務されて居りましたが、実に残念なことをしました。
予てより御覚悟の事とは存じますが、御一家の柱石たるべき人を失われて誠に御気の毒に堪えません。
謹んで弔意を表する次第であります。
今後何卒、祖国の勝利を祈念しつつ戦没された同君の志を継ぎ、名誉の御遺族としての誇を以て強く世の中に生き抜いて、祖国復興の為、御尽し下さる事を切に御願い致します。
御遺骨、遺留品等は軍が玉砕を決意した折に上司の指示により書類、其他の物と共に焼却又は埋没致しましたのでお届け出来ません事を甚だ残念に存じます。
右事情、御諒承下さい。
俸給賞興の末払分は目下軍経理部で残務整理を致して居り、戦地で貯金通帳を失われた方の分は幸い番号の控がありましたので再発行の手続をして置きましたから、いずれ両方とも御手許に届くと思います。
御参考迄に病院の行動の概要を申しあげますと、病院は十八年八月十三日、門司出帆「パラオ」に立ち寄り、九月東部「ニューギニア」「ウエワク」に上陸、十月より「ブーツ」に於て病院を開設。
十九年二月、主力は「ボイキン」に一部は三月「マグハイン」に移動開設しました。
之は五月に主力に復帰しました。
十九年四月、敵が「アイタペ」に上陸した為「アイタペ作戦」が始り病院も之に参加して第一半部は六月「ダンダヤ」に前進、第二半部は「バラム」に前進して病院を開設しました。
「ダンダヤ」「マリン」は共に海岸から二~三籵離れた密林の中で湿地でした。
上陸以後常に補給少く食事は半乃至3分の1定量でしたが、この頃からは一日米一合となり、八月からは全然補給停止となり乏しい現地の椰子や「パパイヤ」の根雑草を採って餓を凌ぎつつ多数の患者の診療に従事しましたので、両地で多数の犠牲者を出しました。
九月より両半部共逐次「マリン」に集結、十二月同地出発とりせり山系を越えて山南地区に入り自活しつつ警備に従事しました。
翌二十年七月に入るや敵の攻撃は猛烈となり遂に全軍玉砕を決意し、まさに玉砕せんとする時終戦になった次第であります。
右簡単乍ら御報知旁、御悼み迄。 草々
【義祖母の名前】 殿
第九十兵站病院 【差出人の名前】
御主人は「ダンダヤ」から「マリン」に移動された組で、「ダンダヤ」のひどい生活が身体を害したのと、「マリン」では椰子澱粉は充分ありましたが、青物その他の副食となるべき物がなかった為に残念なことになりました。
以上が若き軍医の最期の記録だ。
さぞかし無念であっただろう、と彼の心中は察するに余りある。
しかし、この義祖父の記録が特別なのではない。
信じられない数の人たちが義祖父のように犠牲になっているのだ。
Wikipediaによれば「第二次世界大戦における連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数の総計は5000万〜8000万人とされる。8500万人とする統計もある。 当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となった。 また、これらには飢饉や病気の被害者数も含まれる」(研究者間で見解が異なる)とある。
被害者数だけで上記の数だ。
家族や恋人、友人………どれだけの人が涙を流したのだろう?
これが戦争なんだ。